―――間﨑さんが強く影響を受けた作品やクリエイターについて教えてください。
私が強く影響を受けた作品は、宮﨑駿監督の『もののけ姫』や『天空の城ラピュタ』です。特に『もののけ姫』は10歳ごろの多感な時期に出会い、何度も映画館で鑑賞して非常に感銘を受けました。また、士郎正宗先生の『攻殻機動隊』シリーズにも大きな影響を受けています。それから人の手で人を作る、というテーマが印象的だった押井守監督の『イノセンス』も個人的には好きな作品です。
―――原体験という意味では、アニメ制作に携わろうと考えたきっかけは『もののけ姫』だったのでしょうか。
そうですね。更に言えば、当時テレビの特集番組で、監督が作中に登場するキャラクターである「アシタカ」を鉛筆で描いている様子を見まして。自分が感銘を受けた作品が生み出される背景を知ることができてとても嬉しかったと同時に、鉛筆でたくさんの絵を描いてお金をもらっている大人がいることを知り、アニメーターになりたいと思ったのがきっかけです。絵を描くことは元々好きだったので、両親の理解もありそうした方向性については特に反対されませんでしたが、高校に入りいざ進路を考える段階になると、絵を描いて食べていくことの過酷さも感じるようになりました。当時はデザイン系の学部や学科が流行っていて、デザインを学べば食べていけるという文言に惑わされ、一時はデザインの道に進もうかとも考えていたこともありました。
―――具体的にはどんな方向性を検討されましたか。
義足や義手を作る仕事に就きたいと真剣に考えた時期がありました(笑)。自分で作ったものが人の体の一部になるというのは、すごくいい仕事だなと。幼少期に見ていたアニメーション作品の主人公たちが交わす台詞って意外と記憶に残っていたり、あるいは人生に大きな影響を与えたりすることがあると思います。そんな風に、作ったものが誰かの何かになれたらいいなという想いは、ずっと自分の中にありました。だから、どんな形であれ人に深く残るものを作りたかった。
―――根本的な想いは共通していたのですね。
そうですね。そうして色々と考えていたタイミングで、京都精華大学がアニメーション学科を新設したことを知りました。もともといつかはアニメーション作りに携わりたいと考えていたため、タイミングとしてもちょうどよいと感じたことで踏ん切りがつき、二期生として入学しました。現在では京都精華大学で講師もしているので、振り返ってみればよい選択だったなと思います。
―――母校で今度は講師として学生を教える経験を通じて、感じることがあれば教えてください。
今の若い世代、中でも感度の高い人は、あらかじめ用意したありきたりの言葉では満足せず、自分なりに咀嚼した考えを伝えないと納得してくれないと感じます。情報が溢れている時代なので、既に知っている言葉では響かない。加えて、自分で学習できる環境が整っているので、成長のスピードには大きなグラデーションがあるとも感じています。検索能力が高い学生は、自分で情報を集めて飛躍的に成長する一方で、センスが少し足りないなと感じる学生もいて、アウトプット以前にどうインプットするのか、その質と量の部分で大きな差がついてしまう。制作に携わる以上は、自分で興味をもって情報をつかんだうえで、自分の言葉や考えに置き換えて表現することを志してほしいです。ただ集団として学生を捉えるとまた違う見え方があり、悩んだり意見をぶつけたりしながら壁に向かい、そこで何かをつかんで描けるようになるときは、1週間で見違えるように進化したりするので、そうした若さゆえの伸びしろや吸収力は本当にすごいなと思います。またそうした経験を経た学生が、後輩にも同じような経験をさせてあげようとしてくれることがあります。自分がいなくてもそういうサイクルが始まっている様子を感じられることが、最近とても嬉しいですね。
―――ありがとうございます。翻って、制作現場で印象に残っているエピソードなどがあれば教えてください。
一番印象に残っている現場は、最初に作り始めた石田祐康監督の作品である『陽なたのアオシグレ』です。石田監督は大学時代の同期で、彼が東京の小さいスタジオで作品を作ると言うので、それについていったところから始まりました。当時は経験が浅く絵を動かす能力もなかったのですが、それでも何とか仕上げ……。作品として池袋の映画館で上映されたときに、「自分の描いたものが本当にお客さんの目に触れるんだ」と強く実感したことを覚えています。またその後の制作で印象深いのはやはり『ペンギン・ハイウェイ』です。大学時代に読んでいた森見登美彦先生の原作をクラスメイトだった石田監督が手掛け、数名で始めたスタジオで何億円もの出資を受けて制作し、全国公開するという夢のような話でした。かつて読者として受け取っていた作品に今度は自分たちが制作側として関わり、それが全国のお客さんに届くというのは本当に不思議な感覚でした。
―――数名で始めたスタジオ、というお話がありましたが、当時と現在の違いについてはどのように感じていますでしょうか。
初期は決まりも何もなく、むちゃくちゃだったと思います。労務管理の仕組みも整っておらず、70日間ほど休まず働き続けたこともありました。若さがあったからこそできたことだと思いますが、やはりそうした状況についていけない人は職場から離れていってしまうので、持続的な制作体制を作る必要がありました。今は労働環境も含めてきちんと整備されていますが、そうはいってもアニメーション制作は芸事なので、ある種野蛮な部分や自分のカオス、限界に手を突っ込むようなことは起こり得ます。そうした部分にどう向き合うか、それをどう表現するかについて、自覚的に取り組んでいかなければ、自身の限界を超えられずに成長が止まってしまう側面もあると感じます。
―――成長のためにはある種の修羅場も必要、ということでしょうか。
そうですね。特に時代の流れもあって今の若手は守られており、あまりガツガツ主張してこないという話をよく聞きます。本当はがむしゃらに取り組む時期というのがあって然るべきだと思うのですが、組織としての管理と本人たちの意識、両方の面からなかなか難しい部分もあるようです。実際私も京都スタジオに来てから自分より年齢や経験値が低い人と話す機会が増えましたが、若手の中には足りない部分をもっとちゃんと指摘してほしいと思っている人もいます。一方で、その人がどういう負荷に耐えられるのかを見定めないと関係がまずくなってしまうということも、様々な経験を通じて思い知らされました。これは大切な学びだと感じています。
*後編へ続く